僕と僕のマンガの歴史

今日は、僕が描いたマンガについて初めてマンガを描いた日から振り返ってみたいと思います。


小学校入学
物心がつく(たぶん)。
同時に、マンガを読み始める。もっぱらコロコロコミック
好きだったのは「ポケットモンスター穴久保幸作)」「でんぢゃらすじーさん曽山一寿)」「ケシカスくん(村瀬範行)」など。

小学校3年生のころ

初めてマンガを描く。
描こうと思った動機は詳細には思い出せないけれど、当時お笑い芸人のマネをしてみんなの前でおもろいことやるのが好きだったから、それと同じように僕はたぶん、マンガ家のマネをしたかったんだと思う。
最初に描いたのは、大好きだった『ポケモン』の四コマ漫画。この「四コマ漫画」は今でも主流のスタイルだ

小学校4年生くらい

四コマから脱却して、初めて長編マンガを描き上げる。
タイトルは「ポリーハッター」、言うまでもなくアレのパクリである。
ちなみに今の主人公『クリー』が生まれたのはここだった。主人公ポリーの親友(ロンみたいな立ち位置)だった。
これを親戚のおっちゃんにドヤ顔で見せて「あれやね、あのー、右脳が発達してるんやね」と苦し紛れの褒め言葉をいただいた。
それでも当時の僕を自惚れさせるには十分の言葉で、俺はマンガ家になるんだと志し始めたのもこの頃。
この頃から調子に乗って、描いたマンガを学校の教室に設置し始める。

小学校5年生
夏休みの自由研究でマンガ家を描く。
意味わからんけど自由研究でなぜかカラスのことを調べて、それをまとめるのになぜかマンガという方法を用いた。
担任の先生から「得意のマンガでまとめられてて素晴らしいです」と小学生をおだてるには最上の文句をいただいた。

小学校6年生
平成の自民党政権最盛期。
当時のカリスマ総理大臣・小泉純一郎に憧れて、なぜか政治家を志す。
卒業式で親御さんや来賓の方の前で「衆議院議員に立候補します」と宣言してしまう。
とかく「目立ちたい」が信念の僕だから、マンガ家を捨てて政治家を志し始める。

中学校
あだ名が「国会議員」の僕だったが、部活や勉強が忙しくなり、マンガは一時なおざりになる。
それでも不定期に描く。コロコロのパクリを辞めて、おもしろいマンガとはなにか、自分が描きたいマンガとはどのようなものかについて考え始める。
中学時代の代表作は「クリーの進研ゼミ」「クリーの学習塾」「クリーの家庭教師」、つまるところ進研ゼミマンガのパクリであった。
画力の向上が頭打ちになったのもこの頃。

高校
同じく不定期で一つの趣味としてマンガを描く。
「読んでもらって笑ってもらえるもの」について考えた結果、身内ネタをマンガに昇華するだけである程度は笑ってもらえることに気付く。
そう考えて友達の誕生日に長編マンガを描いて送りつけるが、今にして思えば彼は空気を読んで笑っていたにすぎず、ひどく気を使った誕生日にしてしまったのではないかと反省することもある。
マンガを描く頻度は激減したから、たまに描けば楽しさに気付き、これは良い趣味だ、良い勉強の息抜きだと感じたものだった。

大学
時間のありあまる大学一、二回生のころはサークル活動に時間も頭も割かれた。
ところが、三回生の終わり近づく冬のある日、酒を飲んでいた僕は、なぜか男性器のことについて考え始める。
そんでそれがめっちゃおもろいと思い始める。なんとかして誰かに伝えておもしろさを共有したいと思い始める。
そして、自己の思念を最も端的に伝える方法として、マンガが一番適していると思う。
翌朝酔いを覚まして布団から起き上がると、人類史上最もくだらない四コマ漫画が完成していた。
やがて僕はそれを、今や誰でもカンタンに作れるようになった「ブログ」を用いて、全世界に発信し始めた――

これが「とっとこところてん」の生まれた瞬間である。

この後も、マンガを描くことの喜び、脳内の出来事をアウトプットする手段を見つけた僕は、四コマ漫画という窮屈ながら無限の可能性を持つ手法を用いて、断続的に自己表現を行っている。

もちろんこれは金になるわけでもないし、当然ながら人の知識とか笑いとか人類のためになるわけでもない。
でも、自分の脳内を、妄想ばかりが暴走して放出する手立てのなかった脳内を、発散するには最適の方法だったのである。