マンガ原理主義

2012年の末に、僕は再びマンガを描き始めた。
それは、頭の中に渦巻く妄想をどうにかしてアウトプットしたかったからだ。
そしてその妄想は、チンコについてのことだった。

チンコに関する深い深い妄想。
どんな妄想か、というと、文章よりこちらのほうが伝わりやすい。

「チンコ」

これだけである。
他にもいくつかの妄想を同じく四コマ漫画として出力して、ウェブにアップロードした。
これがとっとこところてんの始まりだった。


そんな中で最近になって疑問に思うことがある。
なぜマンガだったのか? ということだ。

妄想を具現化する方法は他にもある。
小説とか、映像とか、演劇とか、絵画とか……
なぜマンガが選択されたのか?

哲学者の永井均が『マンガは哲学する』の冒頭でこんなことを言っていました。

私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性をもち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせるような大狂気。
常識はずれのことが起こっているのに、マンガという虚構の世界ではそれが成立している。
現実世界では起こりえないことが、さも当たり前のように起こる狂気。
そういう世界を組み立てられるのが、マンガという表現方法なのだ。
たぶんそういうことを言ってるんだと思います。

この本を読んで僕はハッとしたのだ。
あのとき描いた「チンコ」という四コマ漫画、あれこそがまさにマンガとして相応しい作品、理想的な「マンガ」だったのではないか、と。

だからこそ僕は無意識にマンガという方法を用いたのではないか。
表現したいことに対して最も相応しい表現方法、これを無意識に見ぬくことができた奇跡的瞬間だったのではないか。

あの作品「チンコ」を、マンガ以外の方法を用いてより明瞭に伝えることは不可能だ。
だから、ここでいくら「あのマンガで伝えたかったこと」を文章として書いても何の意味もない。

もちろん、僕が言いたかったことがマンガによって他の人にちゃんと伝わっているかというと、そうではないと思う。
突き詰めると自己満足になるんだろうけど、でもとにかく僕はマンガでしか表現できないことだったと思っている。


そういうわけで、マンガを描き始めた当初はそういったコンセプトでマンガを描いていた。
いやコンセプトとかじゃなくてもっと形而上学的なものかもしれない。果たしてマンガを描こうとして描いていたんだろうか。オナニーみたいに、頭のなかに飽和したモノを排出したかったのだ。マンガはそのために最も鮮度を損なわない方法だったのだ。
まあ少なくとも序盤は、それがマンガを描く理由だった。

ところが思うのは、最近はそうでなくなってきたということだ。

「頭の中の考えを出すために描く」のではなく「描くために考える」ようになってしまった。

これは本来あるべき姿ではない。
理想論でしかないけれど、本来は「描きたいことがあるから描く」こと。
そしてさらに、それはマンガでしか表現できないことだから、仕方なくマンガとして出力するのだ。

文章も同じ。「書きたいことが溢れてくるから書く」のだ。って『文章の書き方』(辰濃和男)に書いてました。あれなんか俺よく本読んでる人みたいやねそんなことないのに

とにかく思ったのは、一度原点に立ち返るべきではないか、ということ。
最初のPart.1のような作品を再び描きたい。
Part.1で特に素晴らしいと自画自賛するのは「チンコ」「ピカチュウ、快感を覚える」「チンコマン」の3つかな。
言葉ではうまく言えないが、テンションから構成まで全てが完璧だ。きっともう二度と描けない。

もう一度、あの頃を思い出してみよう。マンガに起承転結なんて必要ないんだ。そう思いました。