「太陽の塔」

一番見た映画はと聞かれたらクレヨンしんちゃんのオトナ帝国と言うだろうし、一番聞いた音楽はと聞かれたらsyrup16gのRebornだと言うだろう。
そこで、一番読んだ小説はと聞かれたら、僕は森見登美彦の『太陽の塔』だと言うだろう。

毎年、冬が近づくと、必ず『太陽の塔』を読む。つまり、毎冬に少なくとも一回読む。
さらに、できれば複数回読む。クリスマスに備える頃と、クリスマス直前と、クリスマスを終えた直後の三回読む。

ここでは別にストーリーを詳細に語ることはしないし僕の稚拙な文章で大好きな本をあまり汚してもいけないとも思うけれど、とにかく『太陽の塔』は今や売れっ子作家となった森見登美彦の作品の中でも、処女作にして最高傑作だと思っている。俺はね

処女作というものは世間の評価を一切受ける前の作品だからこそ作家の本質が顕著に出るんじゃないかなあ。と思う
僕は『太陽の塔』こそ、リアルで甘酸っぱい失恋をヴィヴィッドに描いた最高に素晴らしい作品だと思ったのだ。


序盤から終盤まで一貫して語られているのは、女っ気のない男たちによる「クリスマスファシズムへの反逆」である。
クリスマスなんぞ高校の文化祭が世界規模で行われているようなもので、大したことをしていないのにお祭り気分に皆が皆浮足立って騒いでいる、傍から見れば醜い祭りなのだ。
その理論は同じく女っ気のない今の僕にも大きく共感できるから、僕は作品にぐいぐい引きこまれてゆく。

でも、そうやってクリスマスを揶揄しながらも、根底には「できれば俺も彼女と幸せに過ごしたい」という憧れが見え隠れするのだ。
願いがかなわないからこその、反クリスマス主義なのである。


タイトルにもなっている太陽の塔というモチーフは、主人公と彼女の重要なリンカーとして働く。
太陽の塔は主人公が生まれ育った土地にそびえ立っていて彼にとっては親しみがあったものだった。彼女と付き合い始めてから、主人公が大好きな彼女に太陽の塔を紹介すると、彼女は主人公と同じく太陽の塔の虜になる。ところがやがて、彼女は主人公以上に太陽の塔を愛するようになる。

そして、彼女が主人公を袖にしてからは、彼女の主人公に対する愛情は消え失せて、太陽の塔に対する愛情だけが残る。
つまり、主人公は彼女に振られるけれど、彼女は太陽の塔にはいまだゾッコンのままなのである。
自分が紹介したものを彼女が大好きになってくれるのはおそらく嬉しいことだけど、彼女はそれを彼氏である自分よりも愛してしまう。これは、きっと嫉妬を通り越して極めて切ない気持ちになる。


一貫して描かれているのは、主人公の気丈な自尊心だ。読めばそれがただの「強がり」なことはわかる。
それでも、彼女に袖にされた自分の悲しさから目を背けるために、自分という存在を孤高で尊大なものとして語っている。そして、クライマックスでようやく現実と向き合って、ついに、涙を流す。なぜだかそこで僕も、涙を流す。
序盤はずっと強がっておきながら、後半に寂しさを見せる。なんだろう、逆ツンデレとでも言えばいいのだろうかコレを

雪の降るクリスマスに迎えるクライマックスで用いられる「ええじゃないか」の嵐は、失恋の切なさを痛快さに変える重要な役割を担っている。
そう、痛快。なんていい言葉なんだろう。悲しさ、寂しさ、切なさといった負の感情を美しく昇華させてしまうかのような綺麗な言葉。それが「痛快」なのだと思う。


小説の内容だけでなく、実は僕と『太陽の塔』には特別な関係性があった。
僕が『太陽の塔』を初めて買って読んだのは、大学受験の数日後に住まい探しに京都に赴いたときだった。
つまり、近鉄電車京都線に揺られながら、新たに始まる(かもしれない)京都での生活を思い描いていたときだったのだ。

やがて無事に合格して実際に京都での生活が始まってからも、この小説が最も活きる季節(すなわち、クリスマス前)には必ず読み返していた。
だから、4年間の京都生活で断続的に毎年一回は欠かさず物語を振り返っていたと言える。

僕は『太陽の塔』とともに京都で暮らしてきたのだ。
だから、『太陽の塔』を軸にして京都での時間経過を振り返ることがある。

例えば、物語の中で出てくる「高野の24時間営業の書店」や「祇園B級映画館」などは、僕が大学に入学した頃にはあったし実際に何度か足を運んだけれど、今では潰れてしまって存在しないものになってしまっている。
京都に高々4年しか住まない自分が京都について語るのはまったくもっておこがましいけれど、それでも、やはり時の流れを実感して切ない気持ちになってしまう。

僕は、「太陽の塔」とともに京都で青春時代を過ごし、そして、京都を去るのだ。


僕が実物の「太陽の塔」にまみえたのは、実は一回生の5月に万博公園に行ったとき、その一度だけである。
まだまだ足りない。だから、なんとしても、今年中に一回は行く。
大阪だけでなく京都までもを睥睨するような畏怖すべき太陽の塔。彼が存在するからこそ、僕は今の自分に安住せず一度きりの人生を後悔しないものにするべく自己研鑚に励むことができるのだろう。
まあそれは言い過ぎだけど、それはいいとして、あれほど巨大で特徴的な建造物を見られるのは関西にいる今だけなのだから、時間と金があるかぎり行ってみようと思った。