二人称小説にしてみる

小説では一般的に、主人公が「私」「僕」「俺」などの一人称で語られる一人称小説であったり、あるいは、すべての登場人物が名前で語られる(エヌ氏は〜した、とか)のような、三人称小説の場合が多い。

一方で、主人公が二人称で呼ばれる二人称小説というものがあるらしい。
つまり、一人称小説における「私」「僕」が「あなた」「お前」などに取って代わられているのである。

こうすることで、「あなた」=読者となり、あたかも読者が何か超越者によって語りかけられているような感じがして、読者が物語に引きこまれやすくなるのである。

沖縄の作家として初めて芥川賞を受賞した大城立裕氏の「カクテル・パーティー」には、この手法が用いられている。
前半は一人称視点だが、後半から「お前」に変わるのである。

部分しか読んだことがないけども、「お前」という主人公にすごく新鮮味を感じた。
「あなた」「きみ」とも違う「お前」には、自分自身が刃物で刺されるような刺々しい名指し感がある。
この小説はアメリ支配下の沖縄を描いているが、そんな過酷で難しい問題を、お前もしっかり読んで考えろと言われてるような、そんな感じがして、なんだか読んでいて緊張する。


そんな新鮮味を感じた「お前」という主人公を、自分のR-18小説に当てはめるとどうなるか。
「続・恥辱論」の結末部分でやってみた。

 聞くところによると二人は、姿形を自在に変えて、他人に化けることができるそうであった。お前は自分の「入れ替わる能力」よりずっと便利だろうな、と思った。こんな変な能力を持っていたのは、お前だけじゃなかったのだ。
 今日、お前がこんな変態性欲にまみれた作戦を実行しようとしていることを察知した二人は、そんな不埒なことを考えているお前を「化かす」ために一肌脱いだそうである。演技力に優れた横川は川崎さんに化けて、見事な羞恥の表情を作ってお前の興奮を煽り、そして横川の抜けた穴を竹住が埋めて、再検査を受けなければならない横川をサポートしていたのである。つまり、お前が見て興奮していたものは、川崎さんが恥ずかしがる顔ではなく、横川が羞恥に喘ぐ顔であったのだ。そのことに気付いたとき、お前は途方も無い吐き気を催し、後ろにあった便器を抱えこんだのは言うまでもない。
   (中略)
 ちなみに、トイレにものすごく長い間閉じこもっていたために、お前のあだ名が「ウンコマン」になるのは、そう遠くない話であった。
 思えばお前がこの能力に気付いたあの夏の日。あの時も、この入れ替わり能力を使っていなければ、お前が電車内で下痢便をぶちかましていただろう。どっちみち、お前のあだ名は「ウンコマン」になるはずだったのである。
どうだろう、なんとも新鮮な語り口である。
こうするだけで、小説の視座
が転換し、読者が本当に変態でウンコマンみたいな感じがするのだ。

今日はそれだけである!